2017年03月27日

巨星墜つ



3度の飯(以下略)の数少ない(?)応援者の一人にして、
我輩の唯一神である父上が3月20日他界しました。

昭和22年生まれの暴君は69歳で生涯を終えたのです。

父上は5年前に肺癌の診断を受け、癌に侵された片肺を切り落としたものの、
結局他の部分にも癌が転移していて抗癌剤治療を実施。
しかしその抗癌剤の効果で何も食えなくなってしまい、
110kgの体重は70kg以下まで激減するぐらい衰弱。

衰弱したせいか癌は悪化する一方で、2年前にはもう諦めろと医者から見放される。
でも父上は300万円ぐらいする電気治療器を入手して癌に対抗。
抗癌剤を止めたので少しではあるけど飯も食えるようになりましたが、
片肺切り落とした身体では肺活量不足で動くこともままならず、
肉体的にはどんどん衰退していっておりました。

そして去年の夏休み、2年ぶりに父上を拝見したところ、
以前のような活力はなくなり、只の痩せこけた爺に成り果てていました。
飯もまともに食えなくなり、口数も少なくなっていたので、
「来年の70歳の誕生日まで持つだろうか?」という不安はありました。

13日には体調不良で入院しており、20日には退院予定だったという話でしたが、
母上から「お父さんが危ないみたいだから、覚悟しといてね」
メールが来たのは3月20日の昼過ぎ。
話によると退院予定日の20日に突然、容態が悪化したのだとか。

その頃、我輩は三男ヂャギの引っ越しの片づけに向かう最中。
3月25日に転勤が決まったので不要なものを処分するために動いていました。

三男と合流後「父上がヤバイらしいぞ」と言葉を交わすものの、
兄弟二人「あの父上がそう簡単に死ぬこたぁ無いだろう」と勝手な妄想。
とりあえずは目の前の案件を解決するのが先決ということで、
藤山ゴミ処理場に持っていくブツをまとめてリビドー号に突っ込みます。

その後、昼飯を食いに向かった先で何故か我輩の携帯ではなく、
三男の携帯に「お父さん、亡くなったから」と連絡が入り、
昼飯に何を食ったのかも思い出せないぐらいのショックを受ける兄弟二人。
「結局オレたち、父ちゃんの死に目に会えなかったか」

でも状況を鑑みると片付けを止めて湯布院に向かったとしても、
多分大分辺りで死の一報を聞くという羽目になるだけだったんで、
急いだところでどうしようもなかった、としか言いようがありません。
それでも居ても立ってもいられない三男は飯を食った後、直ぐ様父上の下に向かいました。

せめてもの救いは父上が他界するその週末、
次男が湯布院に遊びに来ていたので、
兄弟を代表して父上の最期を看取ってくれたということでした。


通夜は22日、葬式は23日に行うということで、
我輩一家は色々と準備を整えて21日に福岡に戻ることにしました。
父上が住んでいた場所は湯布院ですが、親戚や友人の大半は福岡ですし、
何よりもやはり、父上は本来福岡の人間ですからね。

21日の昼、福岡にたどり着き、昼飯にラーメンを食らうも替え玉する気が起こらず。
その後四男と共に父上が搬送された葬祭場に向かい、冷たくなった父上とご対面。
ばあちゃんの時と同じぐらい涙をこぼしながら取り乱して
泣き叫ぶかもしれんと思いはしたものの、意外と涙は出ず。

「父上が肺癌が発覚するまで吸っていたマイルドセブンの1mmの長いやつ、
いつの間にかメビウスって名前に代わったんだぜ」
と言いながら、
煙草を一箱、父上の前に置いて父上の枕元に座ります。
ココで父上が今まで吸った煙草、ピースの両切り⇒セブンスター
⇒キャスターマイルド⇒マイルドセブン100と全て揃えて置きたかったのですが、
とりあえず父上に会いたい一心だったんですかね、そういう余裕ありませんでした。

医者に見捨てられてからは我々子供の前では疲れた様子だったものの、
苦しい様子は全く見せなかった父上でしたが、
実のところは我慢をしていただけで、相当苦しかったようです。

とりあえず「やっと楽になれたと思って、静かに休んでくれ」と言いながら、
次の言葉を考えようとしますが、涙が止まらず言葉が出ません。
仕方がないので「父上も苦しかっただろうけどな、
傍から見ていたワシラも大分辛かったんだぜ」
と言いながら父上から離れます。

そしたら葬儀場の人から「布団を取り替えるので父上を持ち上げてくれ」と言われたんで、
持ち上げてみたところ随分軽くてすんなり持ち上がったのに驚愕。
あのデカさがビッグダディと言わんばかりの父上が・・・
大分衰弱していたのは目に見えて解っていたけど、改めてショックでした。

夕方に次男が来たのでその日は家族全員と共に実家に戻り、
次の日の昼に再び葬祭場に戻ることにしました。
父上の身柄は通夜を前に、棺桶に収められておりました。

「昔はこのサイズの棺桶だったら苦しくて仕方なかったろう」
何も語りかけてこない父上に冗談半分に話しかけるのですが、
逆を言えばレギュラーサイズの棺桶に収まってしまう程に
体型が変わり果てたという事実が悲しくて仕方がありません。
しかし身長はあまり減っていないので、棺桶の長さギリギリ。

その後通夜が終わり、葬儀場が準備した肉類がなくて味気のない晩飯を食いますが、
悲しさとか以前に食い物に味気がなさすぎて食が進みません。

だから父上がこよなく愛した平尾のテムジンの餃子を買ってきて、
「父上はテムジンに来ると必ず警察学校を抜け出して
ココの餃子を食いに来ていた話をしたよなぁ」と言いながら皆で餃子を食います。
勿論、父上の前にもこの思い出の餃子を置きました。

通夜の日の晩は母上と兄弟全員で葬儀場に泊まる事にしました。
葬儀会場に置かれた父上の棺桶を見つめながら色々考えていたら
以前父上から言われた遺言的発言を思い出しました。
「オレが死んだら、葬送行進曲を流してくれ」と言われていた事。

父上はクラシックが好きで、我輩もその影響を受けてクラシック好きなのですが、
「父上の言ってた葬送行進曲って、ベートーベンの交響曲第3番2楽章やったっけ?」
「それともメンデルスゾーンの“真夏の夜の夢(注:淫夢ではない)”の方やったか?」
どちらも父上が我輩に聞かせながら、葬式の時にかけろとのたまっていたのですが、
残念な事に葬儀場にはどっちのCDも置いていませんでした。

因みにコッチ(文章をクリック)がベートーベンの葬送行進曲。
ノンケの方々には“英雄”と言った方が解りやすいですかね。


そしてコチラがメンデルスゾーンの葬送行進曲。
結婚行進曲は有名ですが、コチラはマイナーですね。


仕方がないのでYouTubeで両方の音源探して我輩のスマホで流しながら、
「ごめん父上、出棺の時はコレ流せそうにないから、今この曲流すことで勘弁してくれ」
と言いながら棺桶の上にスマホを置きました。
そして曲を数回流しながら我輩、ココでようやく涙を流しました。

次の日、葬儀が終わり、棺桶に花や色々な品を納めて出棺。
勿論、供えていた煙草一箱も棺桶に収めました。
そして死に水の代わりに父上がこよなく愛したキャラバンコーヒーを与えます。

クラウンエステートの霊柩車に父上の棺桶を乗せ、
母上は助手席に乗り、遺影を持つ我輩は後部座席へ。
この時、この手の霊柩車に後部座席が一つだけある事を知り、驚愕。
でもね、このクラウンの後ろの席、横に棺が乗るから超狭いの。
そして我が家の近所にある火葬場へと向かいます。

死ぬ間際は痩せこけて随分細くなった父上でしたが、
焼かれて出てきた骨は随分太くてやっぱり父上でした。

そして骨になった父上を見つめながら、一つの時代の終わりを感じました。

父上が居なくなったことで、当然ながら悲しさとか空虚感とかはありますが、
肉体的な状態から何時かこの日が来るだろうという状況ではあったので、
「人が死ぬって、こういうもんだよな」と言うことにしときましょう。
色々考えると涙が溢れて、何もやる気が出なくなりますからね。
実際今の我輩、軽く抜け殻状態です。
モチベーションがなくなって暫くは何もしたくない感じです。

だから四十九日までは喪に服すということで
サバゲーはやらないことにします。

吉六会のエリア13でのゲームは開催しますが、
ヂゴンの巣のゲームは4月の間は休業します。  
Posted by 砥部良軍曹 at 01:24Comments(9)演説