2010年12月18日

寿命とは知りりつつも悲しい

本日嫁の婆ちゃんが亡くなったそうです。享年95歳。
以前よりあまり体調が芳しくなかったとはいえ、突然の出来事。
しかし人の死なんて結構突然な場合が多いので、仕方ないですな。
我輩の爺ちゃんの訃報も我輩が浜松に研修に行った矢先だったので、
我輩一家は人の死に目に立ち会えない宿命にあるのだと諦めています。

寿命とは知りりつつも悲しい

嫁の婆ちゃんも戦後世代の例に漏れず色々と苦労して嫁のお袋さんを育て、
昭和と言う波乱の?時代を強く生き抜いた漢女(“おとめ”と読む)だったそうです。
この写真は去年の年末の餅つきの時に撮った写真。
身体は弱っていたとはいえ、息子(婆ちゃんから見ると曾孫)を見つめる目つきは
この時はまだまだ生気に満ち溢れていたんですがねぇ。
我輩が嫁を青森に連れて行ってしまったのがいけなかったのか・・・

人生95年も生きていれば充分という考え方も出来なくはありません。
でも我輩の婆ちゃん曰く「歳をとる度に生きる事に未練が出てくる」らしいので、
(よーするに色々する為にもっと長生きしたいと思う事らしい)
人生を楽しむために長生きしたいとか、
今までの人生が辛かったからその分を取り戻すために長生きしたいとか、
まあ人それぞれ長生きする理由と生きる事への執着があり、
それが長寿の秘訣でもあるのでしょう。

しかし何かしらの理由があって人生に生きがいを感じられなくなった時、
人間は生きる力を徐々に失い、死を迎えるのでしょう。

病院に入院しているのなら「今夜がヤマでしょう」なんて言われて
直接人の死に立ち会う事が出来なくもないのでしょうが、
最近は祖父や祖母なんて一緒に住んでいるケースも稀ですし、
両親ですらも離れた所に住んでいて意思の疎通がままならない状況も多々あります。
我が家のように両親や親戚から遠く離れてしまうとそうも行きませぬ。

だから我輩は海外に出るような仕事には就きたくないんですよねぇ。
日本国内ならどうにか葬式に戻るあてもありますが、
日本への直便がない外国の場合どうするよ?
結構苦しいよ。かなりテンパッているだろうし。

とはいえ、直で肉親の死に立ち会うと言うのも生々しくて耐え難いものです。
人の死というものは出来る事ならワンクッション置いて知るぐらいが
精神的にショックが少なくて安らかな気持ちで迎える事が出来る。
でもやはり親の死ぐらいは目の前で見届けたいかな。

まあ、数日後には宮崎に戻ると言う事で
今回葬式の為に一足先に帰ると言う事はしませんが、
出来る事なら嫁と子供だけでも先に帰してあげたいというのが心情。
でも先に帰したからって死に顔を拝む事ぐらいしか出来ませんがねぇ。
それが出来ればまた精神的に違うのでしょうが、それもまた空しいものです。
とりあえず、帰省したら線香あげに行かないと。
それと同時に福岡に帰省した時は速攻で我輩の婆ちゃんに会って
「青森から葬式に来るのは面倒臭いから暫く生きていておくれ」
婆ちゃんに懇願しなければなりませんな。

と言うわけで来年の年明け我輩のブログに
「開けましておめでとう」などとコメントを書き込み不埒物には
我輩がち〇ち〇が腫れ上がる呪いをかけて差し上げるのでよろしく。

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Posted by 砥部良軍曹 at 23:19│Comments(3)演説
この記事へのコメント
哲学的でしょうが、
全て生を受けたものにただ一つだけ決まっていることがある。
  答えは死だそうです。
長短の違いはあれ別れは必然だと言うことです。

  「正月は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」
と歌った人もいます。
人と人との付合いの中で親族の死だけは格別の物かもしれません。

私も母が死んだときは若かったから動揺も激しく、少しだけ涙を流した記憶があります。
親父が死んだとき死に目にあうことが出来ませんでした。
しかし、不思議と涙が流れなかったのです。
私が年を取ったからではないと思います。
それは、長い入院生活は耐えた厳格だった親父の自尊心と尊厳が日々壊されてゆくことに私自身が耐えられなかったからだと思います。
ですから、親父が死んだと知らせが来たとき不謹慎にもほっとしたのです。

親族の死に目にあえないことはあながち不幸ではありません。
むしろ客観的にその死を受け入れることが出来る分幸せなのかもしれません。

人の死は前触れなくやって来るものですから、私たち自身も測りしれませんが、死は不浄ではありません。
喪に服することだけが死者に対する思いやりではないと思います。
私の時は、みんなに愉快に笑って送ってもらいたいと思っています。
そして喪に服するのは誰か一人だけで十分です。
折々に思い出してもらえればそれだけで十分だと思います。
思い出してももらえないことが一番悲しいことです。
三代経ると自分の一族の墓も菩提寺も知らない人もいるそうですから・・・
Posted by 骨董屋の親父 at 2010年12月19日 00:19
おばあちゃんのご逝去、慎んでお悔やみ申し上げます。

生きながら死んでいるような輩が多いこのご時世、95歳にしてなお生きる事に未練があるなんて素晴らしいことではないですか!?

自分も最期を迎える時まで精一杯命を燃やし続け、それでも「まだだ、まだなんだ!」と言える人生がいいです。
もう思い残す事はないと思えるのも幸せかもしれませんが、人として生まれた以上、死ぬまで己が生きている意味を模索し続けたいと思っています。
正直しんどそうですがね。

亡くなられたおばあちゃんのお蔭で、人生というものを見つめ直す機会を得る事ができました。  

心からご冥福をお祈りいたします。
Posted by エアガンおやぢ at 2010年12月19日 08:56
>>骨董屋の親父様
確かに、死だけは誰にでも平等に訪れる運命です。
そして前触れなくやってくるものです。
それをどう受け入れるか、その後その人の死をどう考えるか、
それは人生における最大のテーマであると思うのです。

>>エアガンおやぢ様
人の死は自身の生について考えるいい機会であると思います。
我輩も少しだけ自身の生き方について考え直す事が出来ました。
Posted by 伍長閣下伍長閣下 at 2010年12月21日 23:08
 
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